最高裁判所第一小法廷 平成10年(行ツ)23号 判決 1998年7月16日
東京都千代田区一番町二三番地二
上告人
共立酒販株式会社
右代表者代表取締役
古市滝之助
右訴訟代理人弁護士
和田元久
井上励
井浦謙二
千葉県柏市あけぼの二丁目一番三〇号
被上告人
柏税務署長 寺岡勝義
右指定代理人
深井剛良
右当事者間の東京高等裁判所平成九年(行コ)第一五号酒類販売業免許申請拒否処分取消請求事件について、同裁判所が平成九年九月八日に言い渡した判決に対し、上告人から上告があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
一 上告代理人和田元久の上告理由中第二の四を除くその余の上告理由、同井上励の上告理由、同井浦謙二の上告理由中第四の二、三を除くその余の上告理由及び上告人の平成九年九月二九日付け上告理由書記載の上告理由中第二を除くその余の上告理由について
酒税法九条一項、一〇条一一号の規定が憲法二二条一項に違反するものということができないことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和四三年(行ツ)第一二〇号同五〇年四月三〇日判決・民集二九巻四号五七二頁、最高裁昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日判決・民集三九巻二号二四七頁)の趣旨に徴して明らかである(最高裁昭和六三年(行ツ)第五六号平成四年一二月一五日第三小法廷判決・民集四六巻九号二八二九頁、最高裁平成六年(行ツ)第七六号同一〇年三月二六日第一小法廷判決・裁判集民事一八七号登載予定及び最高裁平成九年(行ツ)第九七号同一〇年七月一六日第一小法廷判決・裁判集登載予定参照)。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。
二 上告代理人和田元久の上告理由第二の四、同井浦謙二の上告理由第四の二、三及び上告人の平成九年九月二九日付け上告理由書記載の上告理由第二及び上告人の同年一一月五日付け上告理由書記載の上告理由について
酒類販売業免許等取扱要領(平成元年六月一〇日付間酒三―二九五「酒類の販売業免許等の取扱について」国税庁長官通達の別冊)及び「一般酒類小売業免許の年度内一般免許枠の確定の基準について」(平成元年六月一〇日付間酒三―二九六国税庁長官通達。以下両通達を合わせて「平成元年取扱要領」という。)における一般酒類小売業免許の申請についての酒税法一〇条一一号該当性の認定基準は、合理性を有しているということができる(前記最高裁平成九年(行ツ)第九七号同一〇年七月一六日第一小法廷判決参照)。原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人は、平成元年取扱要領に定められた認定基準に従って適正に計算した結果、上告人の申請に係る小売販売地域である柏市における平成三年度の年度内一般免許枠が六であったところ、公開抽せんによる上告人の審査順位が二四位であり、一位から六位までの申請者が同条各号の要件を充足し免許を付与すべきものと認められ、右免許枠が満ちたため、上告人の申請した販売場に対して免許を付与した場合には酒類の需給の均衡を破り酒税確保に支障を来すおそれがあると判断して本件処分をしたというのである。したがって、平成元年取扱要領に従ってされた本件処分に違法はないとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の認定に沿わない事実をまじえ、独自の見解に立って原審の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうものにすぎず、採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 遠藤光男 裁判官 小野幹雄 裁判官 井嶋一友 裁判官 藤井正雄 裁判官 大出峻郎)
(平成一〇年(行ツ)第二三号 上告人 共立酒販株式会社)
上告代理人和田元久の上告理由
平成九年九月八日付、東京高等裁判所・平成九年(行コ)一五号・酒類販売業免許申請拒否処分取消請求控訴事件に対する原判決(第一審も含めて)は、憲法に反すると共に理由不備、審理不尽の違法がある。
第一、合憲性判断基準の誤り。
一、原判決は(第一審判決理由説示のとおりというのであるから)酒販免許制度の目的を積極目的とも消極目的とも断定することなく、
「一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定し得るためには、原則として、重要な公共の利益のための必要かつ合理的な措置であることを要する」(最高裁昭和四三年行ツ一二〇号同五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)。
とし、合理性の基準を採用している。
そこで、従来の判例の合憲性判定基準を考慮しつつ、合憲性基準を次に検討する。
二、従来、判例は職業選択の自由の制限に関する合憲性審査基準について、積極目的、消極目的の二分論を採用してきた。
すなわち、積極目的の規制については、
「当該法的規制措置がいちじるしく不合理であることが明白である場合に限って」違憲とするべきであり(最大判・昭和四七年一一月二二日・いわゆる小売市場許可制合憲判決)消極目的の規制について、それが合憲であるためには、
「重要な公共の利益のために必要かつ合理的措置であり、他の、より制限的でない規制では立法目的を達成し得ないことが必要である」
(最大判・昭和五〇年四月三〇日・いわゆる薬事法違憲判決)とする。
三、もっとも、総ての人権規制立法を積極目的と消極目的に二分することはできない。本来、積極目的と消極目的の区分は相対的なものであり、具体的規制については消極目的規制か、積極目的規制か、割り切りにくい場面もある。
最大判昭和六二年四月二二日の、いわゆる森林法事件判決が二分論によることなく、厳格な合理性の基準によって違憲判断を導いたのは、かような趣旨によるものと解される。
四、そして積極目的立法か消極目的立法か割り切りにくい場合には、他の視点も加味して合憲性審査基準を検討する必要が生じる。
すなわち、職業を「選択」する自由に対する制限は「遂行」に対する制限よりも一般に厳しい制限であるといえるから、より厳格な審査が必要とされる。また「選択」する自由に対する制限の中でも、競争制限的規制のように、個々の人の力を越えた観点からする規制は人の職業適格性に関する制限より厳しいものといえるから、厳格な審査が要請されるというべきである。
五、酒税法のような「職業選択の自由」の規制は、その立法目的をみると、間接消費税である酒税を担税者たる消費者への転嫁を円滑ならしめるものとし、酒税収入の確保を図るという積極的、政策的意義を持つものであることは否定できないが、他面、酒販免許制度は福祉国家の理念の下における経済的弱者のための政策的規制とも明らかに異なる。
従って、財政目的の規制は積極目的・消極目的の何れとも性格を異にする独自の規制というべきである。それ故、合憲性審査基準も他の視点と加味して検討すべき処、制約される人権は重大な人権である。
しかも、職業「選択」の自由に対する制限であり、加えて本件規制は競争制限的規制に他ならず、その人権侵害の程度は、より重大であるといわなければならない。
六、原判決は「酒販免許制は租税の適正確実な賦課徴収を図るために設けられたものである。そして租税は今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることからも明らかである。従って租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実態についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的には立法府の裁量的判断を尊重せざるを得ないものである」
と最高裁・昭和五五年(行ツ)第一五号、同六〇年三月二七日大法廷判決を引用し、合理性の基準を採用することを正当化しようとするようである。
しかしながら実質的に考えれば、酒販免許制の合憲性を判定するのに、合理性の基準を採用することは極めて不当を云わざるを得ない。
これを実質的に検討すると、いかなる租税を課すか、即ち租税負担割合や、租税条件をいかに定めるかの点については立法者の広範な裁量権を認めるべきであるにしても、租税確保のためにどのような措置を採るかは、処分決定後の目的達成のための手段方法の選択の問題であるから、立法府に広い裁量権を認める必要はない。
このような手段方法選択の問題については、裁判所も充分に判断する資料・能力を有しているのであるから、立法府の裁量を尊重する必要もまた全然ないのである。
なお、原判決が引用している前記最高裁大法廷判決(昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日)は、いわゆるサラリーマン税金訴訟上告事件であり、これは正に租税負担割合や租税条件の合憲性が争われた事案である。従って酒税保全のための手段である酒販免許制の合憲性が争われている本件とは、本質的に事案を異にするので、本件に右判例を引用するのは妥当ではない。
以上により、実質的観点からも酒販免許制の合憲性を判定するのに立法府に広い裁量権を認めて合理性の基準を採用するのは誤りであり、酒販免許制の合憲性審査基準は必要最小限の基準である「より制限的でない他に採り得る手段」(LRA)の基準に依るべきである。
七、この点、原判決は租税法の人権的規制を大雑把に検討して、一律に合理性の基準を適用している点でも、合憲性審査基準を誤っているというべきである。
そして、必要最小限の基準によると、酒税の確実かつ安定的な徴収と、租税負担の消費者への適正円滑な転嫁という酒販免許制の目的は、酒販店を届出制にした後の、事後的な資格取消制度のような、より制限的でない他に採り得る手段によって、達成し得るのであるから、ここでも酒販免許制は違憲といわざるを得ないのである。
第二、酒販免許制の、不必要性と不合理性。
加えて、原判決には立法趣旨と事実の検証が充分なされていないという点で、理由不備・審理不尽の違法がある。
一、職業選択の自由が重大な人権であること、酒販免許制度が「選択」に対する規制であること、しかもそれが競争制限であることを考えれば、その合憲性を審査するに当たっては立法の必要性と合理性を裏付ける立法事実の徹底した検証が不可欠となる。
原判決は酒販免許制度の目的について、昭和一三年の酒税法の改正により、酒販免許制が採用されたことは「必要性と合理性があった」と云うのみで、まったくその事実も内容も検証していない。
もっとも、その動機は酒税の保全から出発したものではないのだから、とうてい現在に通用する筈もない。
しかも酒販免許制がその後、酒税の確実かつ安定的な徴収に役立っているという事実もまた、全く立証も検討もされていない。
すなわち、酒販免許制度制定の前後において、酒税の滞納率には差異が殆ど生じていない。むしろ酒販免許制を採用した後の方が断然滞納率が高くなった年次があった。
また、証拠に酒販免許制度を採用した昭和一三年度以降、酒税の滞納率に差異が生じていないのであるから右制度は酒税保全の目的には当初から役立っていないという外はない。ここでも原判決は当初から立法事実の検証をさえ放棄してしまっている。
二、そもそも、酒販免許採用前より採用後の方がかえって酒税の滞納率が高くなってしまい、昭和二六年には遂に前代未聞の二桁(一〇・六%)に達してしまった。免許制定以前では最高でも世界的大恐慌の昭和四年でさえ二・一%であった。むろん、これは社会情勢とも密接に関係するが、少なくとも酒販免許制が酒税の消費者への転嫁を確実にしてもいなければ、かつ安定的な酒税の確保にも何ら関係していないことは、右の二つの事実だけで証明されている。
加えていうなら、酒税の滞納率が低いのは酒税法が酒造免許制度を採用し、酒造業者自身を手厚く保護して酒税の滞納を防いでいるからである。およそこの世に(世界も含めて)納税義務者であるメーカーを免許で保護し、その上その流通業者まで免許で保護している業種が外にあるだろうか。ここでも被上告人は無意味に屋上屋を重ねるの愚を犯してしまった。この点からみても、酒税の滞納率の低さは、決して酒販免許制度によるものではないといえる。
三、また、酒類販売業者に免許制を敷かなくとも、一般に、小売商業調整特別措置法により、現に、中小企業間の「過当競争」の防止は図られているし、大店法により大企業からの中小企業の保護が図られ、さらに、酒類販売業界については「酒税の保全及び酒類業組合に関する法律」によって、手厚く保護されており、規制されているのであるから「販売業者の乱立→経営の悪化」という因果関係は最早完全に消えたというべく、その存在理由を軽々に認めるべきでない。
現実にも、酒類の販売は「製造業者→卸業者→小売業者」という経路を辿るのであるが、酒造業者が販売する場合においても、実際には自らの責任とリスクで売掛代金の確保と回収のための信用調査は万全を期して販売しいるのが通常である。
それゆえ現実にはかかる納税義務者である酒造業者の緻密な信用調査によって、またその負担において販売代金の回収がなされているのが実状である。決して酒販免許制度によって酒類販売代金の回収がなされている訳ではない。
四、原判決は、かような酒税の確保に関する立法事実の検証を怠り、その上更にその後の運用面でも既述のように、本件も含めて大きな問題が生じていることに殊更に目を瞑っている。すなわち、
「夜間人口が殆どゼロである霞ヶ関地区に改正後の基準では免許を付与できないことになり、かえって改正前より後退している旨主張して、現行の免許取扱要領に合理性がない旨非難するが、現行の改正が前示の趣旨で行われたもので、その改正目的には合理性が認められ」
と云ったあと、
「個々の場合につき何らかの不具合があっても、それのみで改正後の免許取扱要領が全体として不合理であると断じることはできない」(原判決・一三頁一〇行目~一四頁六行目まで)
と何を云っているのかさっぱり分からない。まず、百万言を並べるより、新免許取扱要領制定の平成元年を境として前と後の新規免許の下付状況をみれば一目瞭然である。原判決はこの検証をまったくせず、本件を個々の場合と矮小化してしまった失敗を見逃してはならない。
本件こそ新免許取扱要領を奇貨とした被上告人の恣意行政の、一方の極をなすものである。
折角、夜間人口だけの現行のテレトリー制度では、矛盾は覆いきれないから、昼間人口つまり飲酒量も加味させたテレトリーの再配分が必要であるという上告人の主張に一応は耳を傾けながら、最後には意味もなく、本件処分が違法とまではいい難いとしてしまう。
これらの事を総合的に検討すれば、立法当時の酒販免許制度の立法趣性に関する制限より厳しいものといえるから、厳格な審査が要請されるというべきである。
五、酒税法のような「職業選択の自由」の規制は、その立法目的をみると、間接消費税である酒税を担税者たる消費者への転嫁を円滑ならしめるものとし、酒税収入の確保を図るという積極的、政策的意義を持つものであることは否定できないが、他面、酒販免許制度は福祉国家の理念の下における経済的弱者のための政策的規制とも明らかに異なる。
従って、財政目的の規制は積極目的・消極目的の何れとも性格を異にする独自の規制というべきである。それ故、合憲性審査基準も他の視点と加味して検討すべき処、制約される人権は重大な人権である。
しかも、職業「選択」の自由に対する制限であり、加えて本件規制は競争制限的規制に他ならず、その人権侵害の程度は、より重大であるといわなければならない。
六、原判決は「酒販免許制は租税の適正確実な賦課徴収を図るために設け「酒販免許制度を採用した結果、庫出税方式に反対した酒類製造業者の保護がもたらされるが、これは酒類の販売代金の回収を容易ならしめ、酒税の納税を保全するという国家財政上の目的に資することになる」(原判決・一〇頁九行目~一一行目)
と何の理由もなく被上告人の主張を盲目的に追認してしまった。
まず「酒販免許が酒類製造業者の保護がもたらされる」と、独禁法違反を判決で公然と認めた点が問題である。しかも独占禁止法に違反してまで酒税を保全しなければならない理由がどこにあるのだろうか。
それが仮に多少は国家財政に資したとしても、それが憲法に違反してまで何程の価値を見出し得るのであろうか。それまでしなくとも酒税の滞納が発生しないことは既に何人も疑わない公知の事実である。
それは六十年の長い酒の歴史が現実に証明している。
この点からも原判決は理由不備、審理不尽の謗りを免れない。
第三、その他
一、右のとおり、酒販免許制は立法された当初よりその理由を欠くものであったが、酒税の国税全体に占める割合が、相対的に低下している今日に於いては、なおさら酒税を特別扱いする必要性は減少したといえる。
それゆえ違憲の程度は益々大きくなっている。
二、とりわけ、酒販免許制事件について、各地裁の合憲判決がマスコミに出始めてから被上告人は、年間の免許下付数を極端に半減させている。
アルコールの消費量が相対的に増加していることを考えると、このような運用自体も違憲であるといわざるを得ない。
従って、かかる違憲な運用の一環としてなされた、本件不許可処分もまた、違憲といわざるを得ないのである。
以上
(平成一〇年(行ツ)第二三号 上告人 共立酒販株式会社)
上告代理人井上励の上告理由
原判決には、次のとおり、第一の点につき、憲法の適用の誤りという違法、または審理不尽の違法があり、第二の点につき、審理不尽または理由不備の違法がある。
第一 酒税法の目的についての認定の誤りまたは審理不尽
一 原判決は、一審判決部分の「理由」の「二 酒販免許制度及び本件免許要件の合憲性について」の「1 職業の許可制と合憲性審査基準」において、(1)「憲法二二条一項は、狭義の職業選択の自由及び職業活動の自由を含む職業の自由を保障するものと解されるが、一般に職業ないし営業の許可制は、職業の自由のうち狭義の職業選択の自由そのものに制約を課すものであるであって職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定し得るためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要するものというべきである」として、職業の許可制を定める立法の合憲性判定基準について、いわゆる厳格な合理性の基準を採用しながらも、それに続けて、(2)「租税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家の財政目的のために職業の許可制を設けて規制することについては、その必要性と合理性についての立法府の判断が、右の政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理なものでない限り、これを憲法二二条一項に違反するものとはえいないというべきである。」として、いわゆる明白性の原則を採用した。その結果、原判決の論理では、前記(1)につき、厳しい合憲性審査基準を採ったとしても、前記(2)が優先することになってしまい、結局のところ、職業の許可制のように職業選択の自由そのものを規制する法律であっても、それが租税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家財政の目的を有する規制である以上、著しく緩和された合憲性審査基準(明白の原則)が採用されることになる。
二 それゆえ、職業の許可制を定める当該法律が、はたして租税の適正かつ確実な賦課徴収を図ることを目的とする規制であるといえるのかどうかにつき、たんに当該法律の提案理由等をそのまま認めるのではなく、当該法律の条文全体を慎重に検討したうえで、判断すべきであると思料する。
なぜならば、右のように解しないと、職業選択の自由そのものを制約する法律につき、立法府が、右法律を租税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという目的であると位置づけさえすれば、右目的を達成する手段については著しく不合理であるというきわめて例外的な場合でしか違憲とはいえないことと相俟って、もはや、立法府が、どのような内容のものを定めたとしても、裁判所は、ほとんどの場合、右法律を合憲とせざるをえなくなってしまい、裁判所の有する人権救済機能が全くと言ってよいほど失われてしまうからである。また、当該法律の条文全体を検討することによって右法律の真の目的が何かを判断することは、とくに政策的、技術的な判断を必要としないのであるから、裁判所にも十分可能といえるからである。
三 そこで、前記二の観点から、現行酒税法の採用している酒販免許制度の目的につき検討してみる。
1 原判決は、現行酒税法の採用している酒販免許制度の目的につき、一審判決部分の「理由」の「二 酒販免許制度及び本件免許要件の合憲性について」の「2 酒販免許制度の合憲性」の「(一) 酒販免許制度の趣旨」において、「酒税の納税義務者である酒類製造者が酒類の販売代金を確実に回収できるように、適正な数及び質の酒類販売業者を確保して酒税の確実な徴収と税負担の消費者への円滑な転嫁を確保する必要に基づくものである」と認定している。たしかに、酒販免許制度の本来あるべき目的は、原判決の摘示するとおりであるが、現行の酒税法で採用されている酒販免許制度の目的が、あるべき目的と同一であるかについては、前記二の観点から、慎重な検討を経なければならない。
2 そこで、現行酒販免許制度の目的について、現行酒税法の条文全体から判断すると、以下のように結論付けられる。
(1) すなわち、同法の採用する酒販免許制度の目的が、真に原判決の指摘するものであるならば、同法には、いったん酒販免許が付与された後であっても、酒販免許取得者につき右目的を阻害するような事由、たとえば倒産等経営の基礎が薄弱であると認められる事由が生じたときには、酒販免許を取り消す旨の条項が当然定められていなければならないはずであるが、現行法令の定める酒販免許取消事由は酒税法一四条に定める事項だけであり、倒産等経営の基礎が薄弱であると認められる事由は取消事由にはなっていない。
さらに、酒税法一九条により酒販免許の相続が認められているが、そこでも相続人に倒産等経営の基礎が薄弱であると認められる事由が存在していることが酒販免許相続の条件とはなっていない。
これらのことは、現行酒税法の定める酒販免許制度の目的は、原判決の認定したようなものであると認めるのはほとんど不可能であり、むしろ既存酒販業者の保護にあるということを強く推測させるものである。
(2) また、酒税法の目的が、真に、原判決の指摘のとおりであるとするならば、同法において、酒税の消費者への円滑な転嫁を直接に阻害するような行為に対しては、何らかの防止策を講じなければならないはずである。
しかし、同法は、酒類製造者が、酒類販売業者に対して、自己が蔵出の段階で支払った酒税の額に相当する金額を酒類の売却代金に上乗せせずに右酒税相当分を全額回収しえない価格で売却しても、右製造者につき何ら不利益処分を課していない。また、同様に、酒販業者が、消費者に対して、酒類製造者から酒税相当分を上乗せした価格で仕入れた酒類を、右酒税相当分を全額回収しえない額で売却しても、右販売業者は、酒税法において何ら不利益な取扱を受けることはないのである。
このことからみても、現行の酒税法の目的が、酒税負担の消費者への円滑な転嫁を実現することにあるというのは、きわめて困難である。
3 以上のように、現行の酒税法の採用する酒販免許制度の目的は、原判決の指摘するようなものではなく、むしろ、既存の酒類販売業者の保護にあると解されるか、少なくとも既存の酒類販売業者の保護にあると強く推定される。
4 ところで、既存業者の保護を目的とした職業選択の自由の規制は、零細業者を保護するといういわゆる積極目的による場合を除いては、憲法上許されないものとされている。
従って、酒販免許制度を定める酒税法一〇条一一号は、違憲の疑いがきわめて濃厚であると言わざるを得ない。
5 それゆえ、合憲性審査基準としていわゆる明白性の原則を適用したとしても憲法二二条一項に違反する疑いのきわめて濃厚な酒税法一〇条一一号につき、原判決が、簡単に合憲と判断したことは、同条同項を含む現行酒税法の目的の認定を誤ったことにより憲法の適用を誤ったもの、あるいは、少なくとも酒税法の目的の認定について審理を十分に尽くしていないものと断じざるを得ない。
第二 立法事実の検討の不十分
一 原判決は、一審部分の「理由」の「二 酒販免許制度及び本件免許要件の合憲性について」の「4 原告の主張について」の(三)において、一方では、「酒販免許制度の採用後において、酒税の滞納率が大幅に減少したとは認められない」という事実を指摘しながらも、それは「昭和一〇年代から現在に至るまでの間の酒税の滞納率の推移には種々の社会的、経済的要因及び酒税の税率の変更等の要因が関係しているというべき」として、「種々の社会的、経済的要因」について具体的な説明は一切ないまま「酒販免許制度の採用後において、酒税の滞納率が大幅に減少したとは認められない」という事実を簡単に葬り去りっているにもかかわらず、他方では、「昭和三〇年代以降現在に至るまで酒税の滞納率が概ね〇・一パーセント前後で推移していることが認められる」という事実から、全く「種々の社会的、経済的要因」に言及することなく、直ちに「酒販免許制度が総合的にみて酒税の滞納防止に寄与していることは否定できないというべきである。」という結論を導いている。
すなわち、原判決は、酒販免許制の違憲性を疑わせる事実を不当に軽視し、逆に酒販免許制の合憲性を支えるとみられる事実を安易に強調していると言わざるを得ない。
よって、原判決には、この点につき、審理不尽または理由不備があると認められる。
以上
(平成一〇年(行ツ)第二三号 上告人 共立酒販株式会社)
上告代理人井浦謙二の上告理由
第一 原判決の問題点
原判決は、酒販免許制度及び本件免許要件・本件拒否処分の憲法二二条一項適合性を肯定しているが、これは最高裁平成四年一二月一五日第三小法廷判決(以下「平成四年最判」という。)の結論を安易に踏襲したものであり、次のとおり憲法の解釈の誤り及び審理不尽・経験則違背の違法がある。
すなわち、
<1>平成四年最判は、致酔性を有する商品の販売の自由の制限について、その合憲性審査基準を議論すること無く制限を肯定する根拠としているが、原判決もそのまま踏襲している、
<2>平成四年最判は平成四年の立法事実を審査したわけではない、その基準時は昭和五一年であり、本件基準時は、それから一三年も経た平成四年であるのに、その間の立法事実の変化を十分に吟味していない、
<3>平成四年最判で問題となった免許基準は、人的要件である酒税法一〇条一〇号であったのに対して、本件では本人の力では如何ともしがたい競争制限的規制である同一一号である点を看過している、からである。
第二 致酔性を有する嗜好品に対する違憲審査基準の誤り
一 原判決は、「酒類は致酔性を有する嗜好品であり、その販売については、販売秩序の維持、過度な消費の抑制等の観点から生活必需品等の販売の自由とは異なった何らかの規制が行われてもやむを得ない性質のものである。酒販免許制度によって制約されるのは、このような性質の職業の自由であることを考慮すると、酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという重要な公共の利益のために、酒販免許制度によって酒類の販売の自由を制約することが均衡を失しているとまではいうことができない。」として、「酒類が致酔性を有する嗜好品」であることを酒販免許制度が憲法二二条一項に違反しないことの根拠の一つに挙げている。同様の判示は平成四年最判が下したものであり、原判決はそれを踏襲したものと考えられる。
平成四年最判の右判示の趣旨については、「酒類販売業免許制度の立法目的ではない販売秩序維持等の警察目的からみて、酒類販売業免許制度の必要性と合理性が肯定されることをいうのではない(略)酒類販売免許制度の必要性と合理性について、(略)これによって得られる利益と制約される利益との利益考量ないし価値判断といった面からもその審査を行い、右の利益考量の場面において、酒類販売業免許制度によって制約される利益の具体的内容が、そもそも販売について何らかの規制を受けることがやむを得ない性質を持つ嗜好品の販売の自由にとどまることを指摘するものであると理解」されている(最高裁判所判例解説、民事編、平成四年度、五八六頁、綿引万里子)。
「何らかの規制が行われてもやむを得ない性質のもの」というのが、その保障の程度が弱い、ことを意味するならば誤りである。
原判決が、「生活必需品等の販売の自由」との対比を加えたのは、「嗜好品の販売の自由」が「何らかの規制が行われてもやむを得ない性質のもの」であることをより鮮明にするためであると思われるが、かえってその不当性が鮮明となった。
二 右判示は、販売の自由と購買の自由を混同している。
「何らかの規制が行われてもやむを得ない」ものとして肯定されるのは、規制されることにより被る損害が少ない場合である。
嗜好品の購買の自由(憲法上の人権として尊重されるものか否かはともかく)であれば、肯定できる。嗜好品は生活に不可欠なものではなく、規制を受けても被る損害が少ないからである。他方、生活必需品であれば、消費者が必要なとき自由に買えなければ支障を来すので肯定できない。
しかし、販売の自由に対しては、嗜好品であろうと生活必需品であろうと、その販売の自由が制約されることを当然に甘受すべきとする理由はない。生計の手段として販売を職業としている以上、規制されることにより被る損害に変わりはないはずだからである。
販売の自由が規制を受けても被る損害が少ない場合があるとしたら、生計の手段としてではなく趣味的に販売している場合である。すなわち、「規制を受けてもやむを得ない性質を有する」といえるのは、「趣味的な物を販売」している場合ではなくて、「趣味的に物を販売」している場合なのである。本件の場合、職業選択の自由を問題にしているのだから、当てはまらないことはいうまでもない。
三 「致酔性を有する」商品であっても、「何らかの規制が行われてもやむを得ない」といえないことは同様である。生計の手段として販売する限り、その自由の規制により損害を被る点に違いはないからである。
もちろん、「致酔性を有する」商品の場合、販売の自由を制限する必要性はある。未成年者の飲酒はもちろん、成人であっても多量の飲酒が弊害をもたらすことは公知の事実であるから、社会的な弊害を防止するための制約をうけることは確かである。
その意味で「何らかの規制が行われてもやむを得ない」とは言えるが、問題は言葉遣いではなく、合憲性審査基準である。
社会的弊害防止を目的とする規制の合憲性審査基準が、厳格な合理性の基準となるのは最大判昭和五〇年四月三〇日(いわゆる薬事法違憲判決)の判示するところである。原判決は、社会的な弊害を及ぼすおそれのある物の販売の自由は、予めその保障の程度が弱いかのように判示しているが、最大限に保障される点で変わりがないことは右大法廷判決から明らかである。
もっとも、仮に酒販免許制度の立法目的に、右弊害防止も含まれていたとしたら、財政目的と併有する場合であるから、この場合の合憲性審査基準をいかに解すかは議論のあるところである。
しかし、少なくとも、「酒税法上、酒類が致酔性を定める飲料であることがその販売規制の目的とされていない」にもかかわらず、原判決のように、「同法に定める酒販制度の合理性等を職業選択の自由との関係といういわば消極面から評価する上で、右の点を考慮する」ことは許されない。
社会的弊害の防止が目的であることを明記した場合には厳格に審査されるのに、目的にも挙げない方がより制限できるとしては本末転倒であるばかりか、これまでに積み上げてきた最高裁の違憲審査基準精密化の成果を骨抜きにするものであり、最高裁の大法廷判決に反することは明らかだからである。
第三 本件処分当時における酒販免許制度を支える立法事実の不存在
一 平成四年最判は、「前記のような酒税の賦課徴収に関する仕組みがいまだ合理性を失っているとはいえないと考えられる」と判示してはいるが「酒販免許制度採用当時」(昭和一三年)「におけるその必要性と合理性を肯定したものの、その後の社会情勢の変化とそ税法体系の変遷に伴い、酒税の国税全体に占める割合等が相対的に低下するに至った本件処分当時の時点」(昭和五一年)「においても尚、酒類販売業について免許制度を存置しておくことの必要性及び合理性については、議論の余地があることは否定できない」、との認識を示している。
本件処分時は、さらに一三年も経過した平成四年度であり、酒税の国税全体に占める割合はより一層低下しているのである。
すなわち、国税収入全体に占める酒税の割合は、原判決の認定する数字に基づいても、立法当初(昭和一三年)の約一三・四パーセントが、平成四年最判処分時の昭和五一年度には約六・五パーセントに半減し、本件処分時である平成四年度に至っては、さらに半減して約三・六パーセントとなっている。平成四年最判が合理性に疑問を示してからさらに半減したのであれば、通常もはや合理性がないとみるのが自然である。
二 しかも、原判決は数値を高めに見積もっている。
原判決の認定した昭和五一年度及び平成四年度の酒税割合の数値は、「一般会計分の租税及び印紙収入の決算額に占める酒税の割合」であるが、「特別会計」を含めて計算するとそれぞれ、約六・四パーセント、約三・四パーセントに低下する。
一般会計、特別会計の区別は、本来は財政の実体を明確にするため予算単一の原則が要請されているところ、それでは複雑多岐にわたる財政の諸施策・諸事業について把握することを困難にすることから認められたものである。
ところが、当該税目が国税収入に占める割合を求めてその重要性を評価する場合は、両会計を併せても把握は困難でない。むしろ両者を併せて計算しなければその正確な評価はできないはずである。
それ故、各種統計表においては両会計を併せて計算した数値が掲載されているのである。
しかも、当初一般会計の税目が、特別会計に移ることもあるし、両者に配分される税目もある。実際、揮発油税は創設時は一般会計であったが、後に一部が特別会計に移された。また、石油ガス税は二分の一ずつ両者に配分される。
原判決のように、一般会計中に占める割合しか問題にしないならば、揮発油税や石油ガス税は実際よりも低く評価されることになり、また特別会計の税目は、国税に占める割合が〇パーセントとなり、全く重要な地位を占めないことになるが、この結論が不当であり、甚だしく経験則に反することは明らかであろう。
三 酒税の国税全体に占める割合が著しく低下したにもかかわらず、原判決は、<1>酒税は税目別に見て国税全体で五番目であり、個別消費税の中では最大の税収を確保しており、その中では最も重要な地位にある<2>中小規模の清酒製造者のうちには小売店と直接取引がある業者が多く、小売店の倒産が直ちに製造業者の経営に悪影響を及ぼす事例がある<3>移出にかかる酒税納期限が短期である<4>酒税負担率が高率であることを理由に酒販免許制度を合憲とする。
しかし、右<1>ないし<4>は理由となり得ない。
1 確かに、平成四年度の酒税収入は、揮発油税を上回っているが、石油三税(揮発油税、石油ガス税、石油税)及び地方道路税(揮発油税と同様に揮発油に対してかかる税金である)の合計額よりは下回っている。
右の点を考慮すれば五番目ではなく六番目であり、また個別消費税の中で最大の税収を確保していることにはならない。
そもそも、酒税収入額が国税全体で何番目に位置するかが問題とされているのは、酒税の確実な回収とその税負担の消費者への円滑な転嫁を確保するために、納税義務者である酒類製造者と担税者である消費者の間に位置する酒類販売業者を規制する必要性の有無を判定するためである。
換言すれば、直接の納税義務者と担税者が異なる型の税制において、両者の中間に位置するものを規制することによって、徴収の確保、円滑な転嫁ができる税収額はどの程度なのかが問題なのである。
なぜなら、その税収額が国税に占める地位が重要であれば、中間に位置するものの規制が正当化される、というのが被上告人の主張だからであり、その主張自体には合理性があるからである。
ところで、揮発油税の納税者である消費者と製造業者を結ぶ役割を担っているガソリンスタンドは、石油ガス税、石油税、地方道路税等についても同様な役割を負っている。
とすれば、石油三税及び地方道路税もその合計額が問題となるはずである。
ガソンスタンドが、その濫立により経営が悪化して倒産した場合、製造業者は、揮発油税のみならず、石油ガス税や地方道路税も回収できなくなるのは当然であろう。また、地方道路税と揮発油税は、ともに揮発油にかかる消費税なのであるから、揮発油を購入した消費者に、前者は転嫁するが、後者は転嫁しないということがあろうはずがない。
2 中小規模の清酒製造者のうちには小売店と直接取引がある業者が多いのは、最近の現象ではなく、立法当初から変わっていない。現在では、立法当初に比べて酒類製造者のうち、中小規模の業者の占める割合が著しく低下し、保護の必要性が薄れている。
3 移出にかかる酒税の納期限が短期間に定められていることは、酒類製造者の資産・信用等の変化による影響を受けることを少なくするので、酒税の確保に役立ち、酒販免許制度の不要性の根拠となる。
移出にかかる酒税の納期限が短期間に定められているために、酒類製造者は、比較的短期間のうちに酒類の販売代金を酒類販売業者から回収する必要性があるのは確かである。そのため、昔の盆暮れ勘定から、現在では、売り掛け手形の支払期限は一ないし二か月と短い。その結果、販売業者の倒産による売掛金の焦げ付きが減少している。これもまた、酒販免許制度の不要性の根拠となるものである。
4 酒税負担率が高率であるとしても、他により高率なものがあり、これだけでは酒販免許制度維持の根拠になり得ない。
四 尚、原判決は、酒類が致酔性を有する嗜好品であることも理由として酒販免許制度の合憲性を導いているが、致酔性を有する嗜好品であるからといって、その保障の程度が低いものではないから、理由とならないことは前述したとおりである。
第四 本件免許要件及び拒否処分の違憲性
一 平成四年最判との相違点
1 本件拒否処分の根拠となった酒税法の規定は同法一〇条一一号であり、平成四年最判で問題となった同一〇号の規定とはその要件が大きく異なる。
2 一〇号は、予め知らされたところにより職業希望者が自ら充足の可能性を判断し、また自らの努力で充足することが可能な主観的条件である。
これに対し、一一号は、職業希望者の力の及ばないところで充足の有無が判断される客観的条件である。個々人の力を越えた観点からする客観的条件による制限は、人の職業適格性に関わる主観的条件による制限よりも厳しいものといえるから、その憲法適合性の判断に際しては厳格な審査が要請される。
右結論は、我が国の憲法学会の圧倒的通説であるばかりでなく最大判昭和五〇年四月三〇日に影響を与えたものと思われる西独連邦憲法裁判所一九五八年六月一一日判決が示すところのものでもある。
厳格な審査をすべきといっても、消極目的規制ではない本件について、判例に反対して必要最小限度の基準を採用しろというものではない。
最大判昭和五〇年四月三〇日は、許可制による職業の自由に対する規制の合憲性を肯定するためには、原則として「重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し(以下「Ⅰの要件」という。)」、これが消極目的の規制である場合には、Ⅰの要件に加えて、「より緩やかな規制によって右の目的を充分に達成することができないと認められることを要する(以下「Ⅱの要件」という。)」と判示し、さらに、右Ⅰの要件の判断に際して尊重すべき立法府の合理的裁量の範囲には、ことの性質上、広狭があり得ることを指摘している
本件の場合、右Ⅰの要件のみが問題となり、原判決は合理的裁量の範囲の広狭を決める要素として、最大判昭和六〇年三月二七日(いわゆるサラリーマン税金訴訟判決)を引用して規制目的の性質のみを検討しているように見えるが、規制態様も併せて検討すべきである。なぜなら、右の要素として規制態様を除外すべき理由はないこと、また、現実に規制態様によって人権侵害の程度が異なる以上それを考慮すべき必要性があるからである。
尚、最大判昭和五〇年四月三〇日は、消極目的にはⅡの要件の充足が必要であると判示したものの、あてはめにおいては、積極目的規制の場合にも充足が要求されるⅠの要件を欠くと判断して違憲の結論を導いている。
3 さらに、平成四年最判の場合、一〇号の規定内容を、「酒類製造業者において酒類販売代金の回収に困難を来すおそれがあると考えられるもっとも典型的な場合を規定したものということができ」るものと認定している。この認定について、上告人は必ずしも納得しているものではないが、「最も典型的な場合を規定したもの」と認定したことで「立法目的からして合理的なもの」と容易に結論できたことは間違いない。
これに対し、本件で問題となる一一号の規定内容は、酒類販売代金の回収に困難を来すおそれがあると考えられる「もっとも典型的な場合を規定したものでないこと」は明らかであり、さすがに原判決もそのような認定はしていない。
4 以上より、平成四年最判を尊重したとしても本件免許要件を直ちに合理的なものと判断することはできず、立法事実の有無につき慎重な検討が必要であった。
しかし、原判決は、きわめて簡単に合理性を認めてしまっており、審理不尽の違法は甚だしい。
二 本件免許要件の合理性を支える立法事実の不存在
1 原判決は、本件免許要件の合理性を認める前提として、「一定地域内における酒類に対する需要量は当該地域に存在する販売場の数にかかわりなくほぼ一定していると考えられる」と認定している。しかし、この認定は、通常人の常識と異なるものであるにもかかわらず、原判決は、その認定の根拠を示していない。
2 酒類は原判決が認定したように嗜好品である。例えば主食である米のような生活必需品であれば、近くに米屋があろうとなかろうと購入する必要性があり、また近くに米屋がたくさんあっても必要以上に買うことは普通ない。それ故、一定地域内における需要量は当該地域に存在する販売場の数にかかわりなくほぼ一定している。
ところが元々必ずしも必要なものではない嗜好品の場合は、近くに売場があるか否か、宣伝の態様等によって、購入量は変わってくるのである。それ故、販売場の数にかかわりなくほぼ一定しているとはいえないのである。
3 原判決は、何ら合理的な根拠なく経験則に反する事実を認定する誤りを犯している。
「ほぼ一定している」と考えられない以上、当該地域における酒類販売業者が濫立したとしても、酒類販売業者の経営が不安定になるとはいえないことはいうまでもない。
三 本件免許要件を具体化した免許等取扱要領の不合理性
1 本件免許要件そのものが合理性を欠くのみならず、その具体化である免許等取扱要領の規定は、よりいっそう不合理なものである。
右免許等取扱要領によれば、免許付与の要件として、<1>人的要件<2>場所的要件(距離制限)<3>需給調整上の要件(原判決は一一号の要件自体を需給調整上の要件と呼んでいるので、混同を避けるためこの取扱要領の定める要件は、以下「狭義の需給調整上の要件」という。)の三要件を満たすことを要求している。
<1>の人的要件は、法一〇条一号ないし八号及び一〇号、一二号の具体化であり、<2><3>の要件は、本件で問題となる法一〇条一一号の具体化である。
2 原判決では、<3>の狭義の需給調整上の要件のみを取り上げ、その要件は形式的基準によって機械的に確定するものであるから、認定内容は公平であることを理由に、その合理性を認めている。
しかし、認定内容がいくら公平であっても、それだけで合理性が認められるものではない。
3 酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家の財政目的ために、<2>の要件に加えて<3>の要件まで必要かが問われねばならない。
酒税法の目的は、酒類販売業者の経営の安定を図ること自体が目的ではない。酒税の確保と円滑な消費者への転嫁を図るための手段に過ぎないのである。
すなわち、酒税の確保と消費者への円滑な転嫁が損なわれない程度に、酒類販売業者の経営の安定が図られればよいのである。
これまでに、安定した経営の確保そのものを目的とした職業選択の自由規制立法の合憲性が争われた事例は、いずれも距離制限のみであった(最大判昭和四七年一一月二二日「いわゆる小売商業特別措置法合憲判決」、最判平成元年一月二〇日「いわゆる公衆浴場法合憲判決」等)。尚、最大判昭和五〇年四月三〇日が違憲とした薬事法の距離制限は本件同様約一〇〇メートルであった。
酒税の徴収確保が損なわれない程度に、酒類販売業者の経営の安定が図られればよいのだから、経営の安定そのものを目的とした場合より、より緩やかな制限で右目的は達成できるはずである。
このように解したからといって、前述したⅡの要件(必要最小限度の基準)を採用しろといっているのではない。同Ⅰの要件の「合理的な措置」か否かの判断において、より厳しい制限が課せられていることは合理性を欠く根拠となりうるし、かつ、本件の場合その判断は以下に述べるように可能なのである。
4 積極目的の場合、必要最小限の基準が採用されないのは、その場合の規制が必要最小限度でなくともよいことを意味するものでないことはもちろんである。人権は最大限に尊重されねばならないのだから、いかなる目的による制約であっても、その制約が必要最小限度であるべきことには変わりない。問題は、当該規制が必要最小限度であるか否かの判断権者として立法府と司法府、いずれがふさわしいいかにある。
租税の適正かつ確実な徴収を図るという国家の財政目的のための規制は、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とし、きわめて専門技術的な判断を必要とすることから、この場合その判断は立法府に委ねるべきであり、必要最小限度の基準は取り得ないことは理解できる。
より緩やかな制限で目的を実現できるとしても、そのより緩やかな制限をいかなるものにするかについては、種々の可能性があり、その選択には高度な政策的・技術的判断が必要だから、その判断は立法府にゆだねるべきであり裁判所は謙抑的であるべきだからである。
5 ところが、本件の場合、より緩やかな方法は、<2>場所的要件としてすでに明記されている。種々の可能性はないから選択の必要がないのである。
酒税の確保と円滑な消費者への転嫁のためには、<2>場所的要件と<3>狭義の需給調整上の要件のうち、より制限的でない<2>の要件のみで充分であるという判断は下せるはずである(もちろん、<2>の要件も不要というのが上告人の主張である。)。それ故、<3>の要件をも課している本件免許取扱要領は、著しく合理性を欠き憲法二二条一項に違反するいわざるをえない。
第四 結論
以上のように、平成四年最判にも不適切な判示があったこと、本件とでは前提とする条件が異なることなどから、平成四年最判を前提としても違憲の結論となる方が自然であったと思われる。平成四年最判の結論のみに拘泥して、本件との相違を吟味せずに合憲とした原判決は、却って最高裁判決をないがしろにしたものといっても言い過ぎではあるまい。最高裁の権威を取り戻し、司法の信頼を回復するためにも原判決の破棄が急務である。
以上
(平成一〇年(行ツ)第二三号 上告人 共立酒販株式会社)
上告人の上告理由
○ 平成九年九月二九日付け上告理由書記載の上告理由
はじめに
大正デモクラシー時代の評論家の神様といわれた小林秀雄は、その著書夏目漱石の小説「それから」を評論するに当たり次のように書いている。
「評論が原文(小説)の従属的立場の時代は終わった。評論は原文に関係なく評論として独立して生きていなければならない。つまり、これからの真の評論とは原文を読まなくとも原文の芸術性が理解でき、且つ別個に評論として独立した生命のあるものでなければならない」というのである。
学生時代、これを読んで目から鱗が落ちるほど興奮したことを覚えている。多寡が文学というジャンルの評論というカテゴリーの中でさえ、このように厳しい制約を自らに課している。
まして判決は、常に評論の上に位置する公式な決定文書である。一審判決のテニヲハをいくつか訂正しただけで、その他は概ね一審判示のとおり、という理由で棄却した原判決は果たして判決という名に値するのだろうか。
原判決は一審判決と並べて読み比べなくては、何が書いてあるのか皆目見当がつかない。三人の裁判官がいて、それ程手数と時間を惜しむ理由が何処にあるのだろうか。ここに図らずも、最近の東京高等裁判所が反動的と云われて、世界中の法曹界から批判を受けている理由の一端を垣間見ることができる。
それは上告人が十件免許申請して十件拒否し、そこに恣意も差別もないと嘯く被上告人と、どこか似ている感じがするのは上告人だけであろうか。
案の定、原審は一回の口頭弁論で、憲法適否を争う裁判を終結しようとした。
それは上告人に反論さえも許さないという、木で鼻を括った態度だった。
いやしくも憲法判断を要する裁判である。これ迄の上告人の準備書面だけで二十万字以上になる。辛うじて上告人は必要以上に平伏して反論を許して貰い、二回弁論を開いたことになっているが、事実上は何ひとつ審議していない。
これも異常な訴訟指揮という外はない。
原審では上告人の主張など一顧だにされなかったが、原判決の中身をみれば当然のように従来の合憲判決のコピイでしかなく、残念ながら、新しい論理の発見は一つもなかった。異常な訴訟の元では望むべくもないのであろう。
それでは酒類販売業免許制(以下単に酒販免許制という)の違憲性について次に論旨を展開させていただく。
酒販免許制によって酒販業への新規参入の障壁は極めて高く、彼らの権利が著しく圧迫されているのは勿論のこと、酒販に自由競争の原理が導入されないため、酒の価格が世界に類例を見ないほど割高になっていること、品質の悪い酒が大手を振って罷り通っていること等、消費者である国民大衆の利益が大幅に制限されている事実は、これまでに再三述べてきたとおりである。
このような利益の侵害を甘受しなければならない程、酒販免許制が合理的制度なのか、どうか、どうしても最高裁判所に判断して頂かなくてはならない。
現憲法下に於て裁判官を含め国民は「よい酒を安く飲む権利」を有している。
にも拘わらず、なぜ私たちは五十九年以上も前の明治憲法下の戦争を支える為の統制経済下に採用になった酒販免許制によって、この重要な国民の権利が制限されなければならないのか。
改めて本上告に及んだ理由もそこにある。
第一、突飛と矛盾の原判決。
口頭弁論を形骸化した原判決は、その内容は当然のように論理の飛ぶべからざる飛躍と、矛盾に満ちている。それは論理に理由も脈拍もなく、飛び越してはならない論理を飛び越しているので、ここでは仮に突飛と呼ぶことにした。
次に原判決の理由を記号に従って反論すると、原判決の理由一の1から3までは至る処で論理が大幅に突飛して一貫性がなく、まるで掴み処がない。
また同4から5では、それぞれ前半の説示と後半の判示が、関連もなく逆転して随所に矛盾を露呈していて、判決の基本的骨格をなしていない。
1、まず、その第一は「需給調整上の撤廃も視野に入れて抜本的に見直す方針」(八頁九行目)と云いながら今度は需給の要件を遙かに越えて、いつの間にか致酔性に問題をすり替え、「消極面から評価する上で許される」(九頁八行目)と全く無関係に、無秩序に論理を逆転させてしまった。
これ等は需給調整と致酔性とどこで、どう関係するのか意味不明な上、突飛な論理の三段跳びで、その乖離は埋めることができず、むろん整合性の片鱗もない。なり振り構わず合憲論理を押しつけようとする論理以前の意図さえ見える。もっとも真理と法理を尊重しなければならない判決文に、このような強引な押しつけが許されるのだろうか。
2、一方で「酒販免許制という手段の必要性や合理性について疑問視」(八頁五行目から六行目)しておいて、需給要件だけでは合憲理論に不充分とみるや、上告人が依頼した訳でもないのに、致酔性を持ち出して合憲論を巻き返さざるを得ない辺りに、裁判官の苦しい胸の中がみえる。ここにも判決文として越えてはならない理論の突飛があり矛盾がある。
このような無鉄砲な超法理を弄ぶためには、当初から口頭弁論を開くこともなかったろうし、二十万字の上告人の一、二審の主張を読む必要もなかったのであろう。じじつ、原判決を読む限り、上告人の一審の準備書面も資料も読んだ形跡は微塵もない。これが悲しいかな、今日の東京高裁の不勉強と独善的思考を象徴して余りある。
3、「酒税法上の他の各種規定が酒税確保の目的に沿う効果的な措置であるにしても、酒販免許制が未だ合理性を失ったとまでは云えない」
(一〇頁三行目から五行目)という。他の各種規定措置が効果的であるというならば、なぜ免許制を存置する必要があるのだろうか。全く判決文の体もなしていなければ、理屈にさえなっていない。原判決の通りなら免許制維持の理由から「酒税保全」の条件を除去しなければならず、また、このような詭弁を弄するなら、理屈はいくらでも後からつけられ、本来、飛び越してはいけない突飛な論理という事になる。そして「酒販免許制を採用した結果、庫出税方式に反対した、酒類製造業者の保護がもたらされる」(一〇頁九行目から一〇行目)と公然と違法な一部業者の保護を判決として認めた上で、それでも「国家財政上の目的に資する」(一〇頁一一目)から上告人の主張は採用できないというのである。これを逆にいえば国家財政に資せれば特定の者を不法に保護し、不特定多数の消費者の犠牲を強いてもいいという、ここでも甚だ飛躍すべからざる突飛な論理を展開してしまった。これが権威ある東京高裁の判決かと、暫しわが目を疑う。
4、第4項に入ると原判決は論旨をがらりと変えて、上告人の主張は
「独自の計算や理屈を根拠にする」(一二頁四行目)と批判したあと、
「平成元年六月一〇日付改正の新免許取扱要領に基づく人口基準は、酒類消費の実情と密接な因果関係が認められ、透明性、客観性の点で優れている」(一二頁四行目から八行目)というが、これは専ら一審判決を盲目的になぞっただけで、少しも原審として独自に調査をしていないことを図らずも自白したに等しい。なぜなら、ABC地区の分類は昭和六二年度免許付与実態から算出したものであるというが、その昭和六二年こそ各地の合憲判決を奇貨として、被上告人は後記記載A・B表の通り、それまで最低の一〇二件しか新規免許を下付していないからである。これだけ絞りに絞れば、或いは酒税確保の目的が損なわれないかもしれないが、逆にみれば、そのために消費者は大損害を蒙っている。
それに柏地区(A地区)の一五〇〇人に一場という免許場数は、全国で八万余で足りるという昭和二一年当時の場数であり、到底、そこに透明度も客観性も認めることはできない。これは消費者の無知につけ込んで数字を弄ぶ被上告人の巧妙な免許マジックである。
そして後段にきて、それ程優れていると認めた改正取扱要領を今度は「これらの基準による免許付与制度も多々問題点が指摘され、その見直しを検討すべき時期にある」(一三頁三行目から四行目)と論旨をがらりと一変させてしまうのである。見直し時期にきているというなら、誰が見直せと云っているのか、その理由は何なのか。その視点が欠落していて、前半で透明性・客観性がいくら優れていると礼賛しても、後半で見直しの検討時期にきているという原判決の矛盾した論法は明らかに道理に反している。いや日本語にさえなっていないというべきであろう。ここにも越えてはならない突飛な論理の飛躍があり、矛盾がある。
思うに原判決には真理もなければ論旨に一貫性もなく、一審判決の語彙を繋ぎ合わせただけの、いわゆる屁理屈ばかりが目立つ。そこにあるものは矛盾ばかりの集積であり、自ら求めて深い傷を負っている。
それでも原審は未だ目が覚めないらしく「不合理で恣意的であるとか、既存業者の保護を目的にしていない」(一三頁五行目)と言い張るのである。恣意的でなく新規参入の障壁になっていないというならば、後記A表のように、なぜ平成三年度が一六一場の免許の増加なのか。それを裁判所は自ら精査して証明する必要があったのではないか。そして「不当に新規免許を制限することにはならない」(一一頁九行目)と云われても、上告人を不許可にした平成三年には過去最高の消費量で最低の新規免許場を、どう整合させるつもりだろうか。それは既に犯罪というべく、原判決の判示は空しい言葉の羅列でしかない。事実、被上告人は平成三年度の本件申請時には、極度に新規免許下付を圧縮し、上告人の一〇件の免許申請を全て談合の上拒否したのである。
これを偶然と思う人がこの世にいるだろうか。この犯罪的許可数で二十万人はいるとみられる希望者(甲第二三号証)を充足させるためには二百年以上を必要とする被上告人の陰謀を、まざまざと成功させてしまったのである。このような人を馬鹿にするにも程がある数字を弄んで、原判決がいうような透明にして客観的な二十一世紀を睨む国家の青写真が描けるものだろうか。仮に描けたとしても、それは突飛な空論でしかないだろう。
これらを総じて原判決が透明性・客観性の現れと見たとすれば、裁判所もまた被上告人と組んで犯罪的行政の一端に荷担した事になり、近い将来に償い切れない罪を負わされることになるだろう。
5、そうであるから「その改正目的に合理性を認めることができ基準として、より客観性を期したものである」(一四頁三行目から四行目)と云って舌の根も乾かない中に「個々の場合につき何らかの不具合があったとしても、それのみで全体が不合理であると断じることはできない」(一四頁五行目から六行目)と全く相反することをいう。個々な場合とは一つや二つの個ではなく一〇件が一〇件の個の事例である。透明性があり客観性がある取扱要領と判示しながら、本件申請のA地区を基準にすれば、裁判所は昭和二一年当時の免許場へと激減させる被上告人のトリックに荷担したことになる。加えて一〇件申請・一〇件談合拒否の中の一つである本件には恣意も差別もないというのであれば、どこの国の何処に「違法」が存在するのだろうか。これでも尚「現行の免許取扱要領の客観的、具体的基準の定立が税務署長の合理的裁量の範囲を越えていない」(一五頁七行目から八行目)と云われてしまっては、この裁判所の判断こそ客観的・具体的基準を大幅にオーバーランしたことになりはしないだろうか。
また、消費税と酒税を同列に論じられないというが、仕組みも基準も同じなら類例にさえなり得ない。しかし、仕組みも税額も異なるとすれば、免許制にして保護しなければならないのは、むしろ小売店が納税義務者で、酒税の六倍もボリュームのある消費税の方で、いま酒販免許制を撤廃しても酒税は百円の滞納も発生しないというのが絶対多数の常識である。
ここにも原判決が語るに落ちたというべく、真理の追求も事実の精査も努力もなく、安易に怠惰に流れて自ら一審判決のテニヲハ遊びに蕩尽しただけで終わってしまい、償うことのできない損害が残る結果となった。
第二、恣意的運用。
第一次臨調が始まったのが昭和三八年であり、その答申が奇しくも、昭和三九年であった。あれから政府関係の勧告は十八回に及んでいる。
それも、酒の消費量が減少しているのならともかく、後記B図表の如く昭和六一年から平成二年までの年平均の増加量(各三三二KL)は過去最高なのである。それで免許場数の増加率を昭和四〇年代(各一八四九場)を平成三年(一六一場)には十一・五分の一に減らす理由がどこからくるのか。これが原判決のいう透明性のある免許行政なのであろうか。これが世界に向けて果たして通用する論理かどうか、是非試して貰いたいと思う。
そこには透明性もなければ客観性もなく、遙か理解の外にある。
だから云うわけでもないけれども、少なくとも臨調も、物価安定会議も、公取委も、企画庁も何も云わなかった昭和三〇年代から四〇年代当時の方が、被上告人は免許を大量に許可していたのである。だから本件で柏区内には一六五場も余裕があるという上告人の主張(日本の人口を一三万七千の免許場数で除し、それに柏市の人口を掛けると三四八場になる。これから当時の既存免許場一八三を引くと柏市の不足免許場は一六五場になる)を原審は「上告人独自の計算や根拠による」(一二頁三行目)として一蹴してしまったが、どこが独自の計算根拠なのか、一向に明らかにしない。
そして被上告人が主張する何が何だか分からない理屈によって、ともかく柏市には二〇場の枠は必要だという免許枠(一審判決六四頁一〇行目)を一応認知しながら、それを今度は意地悪く三分の一以下の六場(一審判決・六五頁五行目)に圧縮してしまうのである。その理由が奮っていて「激変緩和措置」だというのである。これはグランプリを取ったビート・たけしが「これからは自分を巨匠と呼んでくれ」という程のギャグにもならない。笑わせないで欲しい。およそ改革と名のつくものに痛みが伴わないものが、嘗てこの世にあっただろうか。それが公平かどうかの問題は別としても激変を回避して改革された試しは一つもないことは、長い歴史が証明している。上告人が試算した一六五の免許枠と、被上告人が理不尽に二〇を六に減らす方式とどちらに整合性があるか、原審は吟味する必要があった。そういう被上告人の数字の翻弄にまんまと乗せられて判示するから、一五〇〇人に一場等という、終戦直後の状態に戻す企みに荷担させられてしまったのである。これは既に被上告人による犯罪である。
それでは何が面白くて被上告人はかかる恣意行政をするのであろうか。
最近の大蔵省の住専問題や、銀行・証券のスキャンダル等を見るにつけ大蔵省上位の感覚が抜けきらず、管轄業界である酒と金融を免許で押さえ込めると過信してしまったところに問題があったものと思う。むろん本法廷では立て前上、酒販制度の目的を「酒税の保全」等と口にするが、もはや、大蔵省の役人の中で酒販免許制が酒税の保全に役立っているなどと、本気で思っている人は一人もいない筈である。
だから、国税庁広報部は記者会見等の席で新規の酒販免許は開放経済に向ってどんどん出している等と、臆面もなく平気でウソを云うのである。
特に合憲判決が頻繁に発表された昭和六二年以降は、後記A・B図表の如く、目を覆いたくなるような惨憺たる新規免許の下付状況である。ここに於て、裁判所による合憲判決を奇貨とした国税の恣意行政は極まったというべきである。ここにも酒販免許運用の違法は歴然としている。
第三、職業選択の自由を犯す。
原判決には、憲法第二二条第一項の職業選択の自由に関する規定の解釈適用を誤った違法があるので再度検証する。
一、原判決は酒税法第九条と同一〇条一一項による酒類の販売業者についての酒販免許制が設けられた目的を、不安定な酒販業者により酒類代金の回収が困難となり、酒造業者の経営に不安定を招き、その結果の滞納を回避して酒税収入の保全を図ることにあるとしている。原判決は一審判決を支持して「堅実な経営」と「酒類の需給の均衡」を上げ、それが酒税の保全につながるというが酒販業者が債務超過に陥ったり支払停止の状態になったりしない限り(いわゆる倒産の状態にならない限り)、酒税の納付は行われ酒税収入の保全に支障はないわけであるから、結局の処、原判決の前記認定は酒販免許制が酒販業者の倒産防止に役立つている事と解される。原判決は「酒税法の各種規定が酒税確保に沿う効果的な措置」(一〇頁三行目から四行目)と述べ「酒類の販売代金の回収を容易ならしめ、酒税の納税を保全するという国家財政上の目的に資する」(一〇頁一一行目から一二行目)とも云っているので、酒販業者の倒産防止に酒販免許制の根拠を求めている事は間違いない。
二、次に酒販業者の倒産が防止できれば、それが酒税収入の保全に多少役立つとしても、その効果は全く反射的・間接的にすぎない。更に酒販業者の倒産防止と、酒税収入の保全との間には右の反射的・間接的な関係が何段階にもわたって介在するのである。ここに酒類が酒税納入義務者である酒造業者から卸売業者を経て小売業者に供給される場合を考えてみると、酒販代金は、消費者から小売業者に、小売業者から卸売業者に、卸売業者から酒造業者に、それぞれ納入されることになる。
小売業者の乱立や過当競争が防止されて、小売業者の倒産防止により、卸売業者の小売業者に対する酒代金の徴収の保全に役立つと一応考えても、その効果は飽くまで反射的・間接的なものであることは、いう迄もない。けだし、小売業者は、卸売業者への代金の支払を直接の目的として酒類の小売業を営んでいるものではないからである。
次に、卸売業者についてみれば、小売業者からの酒販代金の保全が図られてその倒産がないことにより、酒造業者の卸売業者に対する酒販代金の徴収の保全に役立つと一応考えることができるとしても、その効果が、反射的・間接的なものであることはいうまでもない。けだし、卸売業者もまた、酒造業者への代金の支払を直接的の目的として、酒類の卸売業を営んでいるものではないからである。
さらに、酒造業者についてみれば、卸売業者からの酒類販売代金の徴収の保全が図られて、その倒産がないことにより、酒税納入義務者たる酒類業者からの酒税の徴収の保全が図られたとしても、その効果もまた、これまた反射的・間接的なものであることはいう迄もない。けだし、酒造業者もまた、酒税の納入を直接の目的として、酒造業を営んでいるものではないからである。
付言すれば、国民が営む如何なる職業ないし営業であれ、それを税金の徴収に奉仕することを目的とすることは許されない。けだし、それは国民を奴隷化する国家を承認することに帰するからである。いかに酒税が国の重要な財源であろうとも、酒税収入の保全に関わりがある職業ないし営業の直接目的を、酒税収入の保全にあるとみることは許されないというべきである。
三、酒販免許制の目的につき、「酒類販売業者の堅実な経営、酒類の需給の均衡を通じて、酒税収入の保全を図ることにある」としたことについては、小売業者の経営状況と卸売業者による、代金徴収保全との関係、卸売業者による小売業者からの代金徴収状況と、酒造業者による代金徴収保全との関係及び酒造業者による卸売業者からの代金徴収状況と酒税収入保全との関係が、それぞれ反射的・間接的であって、小売業者の経営状況から酒税の収入保全に至るまでに、三段階の反射的・間接的な関係を累積してはじめて、漸く小売業者の経営状況の良さが酒税収入の保全に役立つという説明がつくことになる。これを以て酒販免許制の具体的な必要性・合理性の証明にはなり得ないことは勿論である。
四、最高裁判所の判例に於ては(昭和五〇年四月三〇日・大法廷判決)
「一般に許可制は単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないし経済政策上の積極的な目的のための措置」であることを要するものとされている。
右の判決にいう「社会政策ないしは、経済政策上の積極的な目的のための措置」とは、その措置が直接に社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的を有する場合を指し、その措置の反射的・間接的な効果としてそのような目的が達せられる場合はこれに含まれないものと解すべきである。けだし、そのように解しないと、右最高裁判所判例が、原則として職業の許可制を否定する「自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的・警察的措置」についてみても、反射的・間接的には、社会政策ないし経済政策上の積極的な目的に役立つことを認め得る場合があるので、判例によって確立された両者の区別が無意味なものとなってしまうからである。
しかも、反射的・間接的な効果であっても、かつまた、それが数段階にわたる反射的・間接的効果を累積して漸く認められる場合であっても、これを直接の目的とする場合と同様に取り扱うことになると、すべてはあとから理屈の付くことになり、憲法で保障された職業選択の自由は、立法府が立法に当たってつける理屈次第で容易に職業の選択を許可制にすることを可能にしてしまう危険がある。
このように結果として、憲法の保障する職業選択の自由は画に書いた餅になってしまい、憲法解釈上、到底認められるところではない。
第四、違憲の理由。
一、原判決の理由を一読してまず気付くのは、原判決の事実誤認と論理が実に古色蒼然としているということである。
たとえば、原判決は、酒販免許制施行の理由を上げるが、五十九年前に比べると現在では酒造業者、酒販業者をめぐる環境も、酒税についての考え方も一変している。それだけでなく、酒販免許制が酒税の庫出課税実施に対する見返りとして設けられたもので、酒販免許創設に関する当時の説明が建前上だけのものであったことは、すでに歴史的な事実である。時代は大きく変化しているのに、このようなとうの昔に論破された理由を並べたててみても、とうてい世人を納得させることはできない。酒販免許制が酒税確保のためだ、等という理由づけは「酒類業界内部にしか通用しない」という自省がなされている(醸造新報昭和五六年六月一一日・甲第二九号証)が、実際、このような議論が通用するのは「酒販業界と原審だけ」ということになるのではないだろうか。
二、原判決理由のもう一つの特徴は、原判決の論理が国税当局のいうところをそのまま鸚鵡返しに繰り返しているだけであって、これを裁判所の立場で吟味し、検証し直した形跡がまったく見られないことである。試みに、「酒販免許制成立の経過」「国税収入中における酒税収入」「酒販免許の運用状況」と、どれを拾ってみても、その項目も書いてあることも、すべて被上告人の原審主張そのままではないか。
判決には眼光紙背に徹するとまではいかなくても国家権力側のいうことでも、時には真実と疑わしいものがあるという立場でこれをふるいわけようと努力するくらいの慎重さは必要であろう。
三、酒販免許制の目的を酒税確保である、とすることに対する疑問の眼目は、酒販免許制を設けることによって、なぜ酒税の確保が図れるのか、という点にある。この点について、原判決を再度援用すれば「酒税法の各種規定が酒税確保に沿う効果的な措置」と述べたあと「酒販免許制を採用した結果、酒造業者の保護がもたらされる」(一〇頁一〇行目)と公然と違法に近い特定者の擁護を容認したあと「酒税の納税を保全するということは国家財政に資する」(一〇頁一一行目)というのである。
まず、その説明が極めて抽象的である。酒税の納税を「保全する」とは何なのか、酒造業者の「販売代金の回収を容易ならしめる」とは具体的には何を指しているのか、一向に明らかでない。原審だけがひとり勝手に「酒販業者の役割」に理解を示すだけで読む者には何のことなのか、さっぱり理解できないのである。それとも原判決は酒造業者の負担した酒税を消費者に転嫁する立場にあるのだ、ということだけを言うために、このような持って廻った言い方をしているのであろうか。
そうだとすると、酒販業者の酒税転嫁の役割に関する原審の理解は全くの誤りである。原審の誤りであるゆえんを箇条書風に列挙するとつぎのとおりである。
(1)当然のことながら酒販業者は酒税転嫁の義務を負うものではない。
酒税は庫出しの段階で酒造業者によって国庫に納付されれば国税としてそれで完結するもので、酒税担当額が酒類の価格に上乗せされることにより卸、小売を経て事実上消費者に転嫁されるにすぎない。酒造業者が酒税分を割り込んで卸売りするのも、それは酒造業者の自由であり、酒販業者においても同様である(酒税額以上の価格を強制するとすれば独禁法違反の問題を生ずる)。
(2)そして右のような事実上の転嫁の上での危険負担は、すべての間接税に共通する事柄であり、また原料の値上がり等のコストアップ、インフレその他の経済情勢の変化等の場合にも、常に存在することで、製造業者および上位から末端までの流通業者のすべてに共通するものである。なぜそれらの中で酒税のみ、酒販業者のみを特別扱いにするのかということを原審は理解しているのであろうか。問題を間接税に限定してみても、転嫁についてのリスクを負うのは、酒造業者に限らないのに、なぜ、彼等からみれば不特定多数の第三者であるに過ぎない、酒販業者を免許制にすることによって拘束を加えるようなことまでして、そのリスクをカバーしなければならないのであろうか。
(3)右に対する国税当局の弁解は酒税の負担率が他に比べて高率・高額であるということにあり、原判決(一審)も、これをおうむ返しにくりかえしている。
しかし、それならば揮発油税は五五パーセントの高率であるが、これを「転嫁」すべきガソリンスタンドは免許制ではない(因みに被上告人は石油会社は大規模で間接税負担率は小さいというが、酒造業者と酒販業者の関係のように、流通業者との関係で問題を考える場合に、ひっくるめて負担率を議論してみても無意味である)。
また酒税は高額というが、酒税の一兆九六一〇億円に対して石油三税は二兆一五六五億円であって決して低額ではない。
(4)なお、酒税は租税収入の第5位(実は六位)を占める高額というけれども、これも表現の問題であって、第一位、第二位の所得税は、二三兆二三一四億円、法人税一三兆七一三六億円、消費税は五兆二四〇九億円(今年度予算は一三兆円)、相続税は二兆七四六二億円で酒税と隔絶した高額であり、そして揮発油の販売業者が免許制でないことは前述のとおりであり、物品税対象物品の販売業者が免許制であり得ないことも公知の事実である。
(5)そもそも、販売業者の経営状態を健全にさせることによって消費者から吸い上げた酒類代金を、確実に酒造業者に支払うようにさせ、それによってこれに含まれる酒税相当分の回収を確実ならしめる、という「酒税転嫁のための酒販免許」の考え方は、いかにも持って廻ったものであって「風が吹けば桶屋がもうかる」といった類のものでしかない。いかにも、頭の中で作り上げた理屈であるから、現在ではあちこちで破綻し、既存業者の保護という本音があらわれて取り繕うのに業界も行政(国税)も政界も、甚だしい慌てぶりを示している。
四、このようにして、酒販免許制度維持のために酒販業者や国税当局が上げる理由は、免許制度正当化の理由づけとして全て破綻してしまった。正当化できる理由は実は一つもないのである。そこで残るのは、酒販免許維持のための隠された理由だけであって、それは、国の力を藉りた新規参入の阻止とそれによる業界の利益の保持ということである。まさにそのことの為に、酒販業界は政界と国税当局に対してあらゆる政治力を行使している。酒販連盟から故岩動道行代議士(国会酒販問題懇話会会長代理)に対する七千五百万円の不法献金隠し等(甲五二号証)もその一角にすぎないであろう。
国税当局は酒販業界の要求に応えて免許制度を盾に新規参入阻止に全力を尽くしており、国税庁中島富雄酒税課長(当時)が新規の酒販免許申請が「免許基準には一応パスしているというケースが多く、第一線の担当者は日夜その処理に苦慮しているのが実情である」と業界新聞(甲第三三号証)の中で公然と発言しており、更に向高松国税局間税部長は通達基準で出せば「年間六〇〇〇件の免許を出さなければならないものをそれをうちの方が押さえている。だから年間二〇店ぐらいしか出していないだろう」「うちの統括でも必死でやっている。でなければそんな数字にならない」(甲第二三号証)と述べているような事をやっている。
このような状況はつとに各方面の注目するところとなり、第一次臨調、第二次臨調で酒販免許廃止の方向が打ち出されたほか、政府の各機関でもその弊害がつよく指摘されている。公正取引委員会も、酒販免許が新規参入阻止の効果しか上げていないことにつき、強い疑念を呈しており、独占禁止法制上の重大な疑問が提起されている。
なお、ここで「酒税保全」ということにつき、附言しておきたい。
「酒税保全」とは、酒税をどのように多く賦課するかということでなく、賦課した酒税を如何に取りはぐれのないように徴収するかの問題であることは「保全」という言語に照らしても明らかである。
また単なる滞納防止とは最高裁判例のいう「社会政策ないし経済政策上の積極的な目的」その目的が具体的であることを要するものと解すべきであり、そもそも酒税保全の目的が職業の選択につき許可制を採用しうる理由にはなり得ないと云わなくてはならない。
第五、結語。
以上縷々述べてきたとおり、酒販免許制度は立法当時より立法事由を欠くものであったが、酒税の国税全体に占める割合が、相対的に低下している今日に於て、なおさら酒税を特別扱いする必要性は少なくなった。それゆえ、違憲の程度は益々大きくなったと云える。とりわけ、酒販免許制事件が各地で合憲判決が出始めてからは国税側は年間の免許増加数を半減させている。(仮に被上告人の言い分を認めて毎年千件位新規免許を下付したとしても、後記B表のとおり昭和四一年から五〇年までは毎年平均で一八五〇場位を免許しており、それは処分直前の三三二キロリッター(四〇年代は二六六キロリッター)の消費量は昭和四〇年代の一二五%であることを考えると消費量に対する免許数は明らかに二分の一以下である)
その後(平成四年以降)もアルコールの消費量が相対的・全体的に増加していることを考えると、このような運用自体もまた、違憲・違法といわざるを得ない。したがって、かかる違憲な運用の一環としてなされた、本件不許可処分もまた、違憲であるという外はないのである。
右の事象を踏まえた上で酒販免許制を総括すると、
1、酒税法一〇条一一号の「需給要件」というのは、実は被上告人が故意に捏造した数字の魔術で、如何様にも作れることが判明し、
2、地理的に、人口的に公正性、透明性を増したと自画自賛する新免許取扱要領も、その中身をみれば恣意と差別の行政そのもであったことも、次々と白日の元に晒され、
3、同じ大蔵省内にあって、銀行・証券の開放的免許行政に比べても、酒販免許制だけが時代に逆行して、最も封建制の色濃い利権の温床に化してしまったことも次第に明らかとなった。
しかし、我々は過去に縋っていたのでは永久に将来への展望がない。旧来の陋習を断ち切って一歩前へ踏み出してこそ明日への希望がある。それには激変緩和措置などと云わず、多少の痛みは皆で分ち合わなければならない。
今、個別的にも全体的にも被上告人の処分を違法としなければ、将来に取り返しのつかない損害を蒙ることにならないと、誰が保証できるだろうか。
右に見てきたように、被上告人の不敵とも思える消費者への挑戦の原因は何だろうかを考えた時、免許制の性悪説をいやという程思い知らされてしまうのは上告人だけではないだろう。そこには一部の人たちだけで権益を守ろうとする、癒着の構造が忽然と表面化する。
権力は腐敗する。利権は癒着を生む。
五十九年間という超長期の酒販組合と被上告人との癒着の構造は遂に一つの強力な利権マシーンを作り上げ、被上告人らの余生の収入に一役買っただけで、一方の消費者の利便をほぼ永久に放棄させてしまった。
およそこの世に一つの利権が六十年も温存された試しがない。利権は継続に比例して腐敗していく。パーキンソンの法則は残念ながらここでも生きていたのである。原審でも書いたが
「一利を興すは一害を除くに如かず」耶律楚材伝(元史)
図らずもこの言葉は被上告人の本件処分を咎める為の天からの箴言のような気がする。日本一の発展地・柏市は、こと酒販免許に関する限り被上告人によって日本一不幸な過疎砂漠にされてしまった。それが被上告人のする酒販免許行政の実態なのである。
そこには開かれた透明性も、公平性もとうの昔に雲散霧消してしまった。あるものは消費者の不便と高い酒だけである。
以上の点を総合的に判断すれば、被上告人の酒税法による本件拒否処分は、憲法二二条一項に違反するばかりでなく、酒税と消費税との関係において、法の元の平等が破壊されて憲法一四条にも違反する疑念が捨て切れず、更に上告人の十件申請・十件拒否という謀議による拒否処分の一環として、本件拒否処分もまた、憲法三一条にも違反していたことは余りにも明らかである。
このような二重三重の罪を犯した被上告人は、潔く贖罪しなければならないところ、本件反論にもみる如く未だに恬として恥なく、全国の潜在免許取得希望者に行き渡るのに二百年を要する策謀を押し進めているのである。
そしてそれが被上告人のいう透明性であり、客観性なのである。原判決もまた残念ながら盲目的にそれを追認してしまった。
今こそ最高裁判所は、自信を以て世界に誇る我が国憲法の真の存在意義を、大きな声で宣言していただきたい。
以上
(添付書類省略)
○ 平成九年一一月五日付け上告理由書(二)記載の上告理由
被上告人の証拠には看過できない作為的誤りがあり、原判決には審理不尽の違法があるので、従来の主張に追加する。
一、新証拠の発見
被上告人は平成八年三月一一日付・一審準備書面(四)一七頁・九行目以下に於いて、各国税局長に命じて提出させた免許付与状況(これ自身極めて信用性の薄いものであるが、以下・国税局資料という)を証拠として提出し、
「右のとおり、・・・(平成元年から同五年まで)五年間で五、六四〇場となっており、原告の(上告人)主張には理由がない」(同一八頁八行目)と切り捨てた。
右によれば、平成元年に於いて七三四場、同二年・一、〇八九場、同三年一〇九六場、同四年一、三四三場、同五年一、三七八場、計五、六四〇場で、いかにも解放された行政のように見せかけているが、これを集計したとされる被上告人発行の後記「酒のしおり」(以下・単に酒のしおりという)と、如何なる対比を試みても全く符号せず、どうしても腑に落ちない。もっとも、五年間で五六四〇場くらいの付与では潜在的免許取得希望者を満足させることはできず、到底開放的行政などといえないことは勿論であるが、それにも増して被上告人は何一つこれを説明せず、その内容は全く不明であった。
それもその筈で酒のしおり(平成六年度から同元年度を差し引いた)免許場数の増加数は全酒類小売でマイナス七三六場、小売の総計でもマイナス四三五場になるからである。(酒のしおり・酒販免許場数の推移参照)この見逃せない重大な証拠の差を被上告人は「卸と小売の加除で違う」と、不親切に云うだけである。
元来、被上告人は原審でこの間の実状を進んで釈明する義務があり、原審もまたこれを正確に精査する必要があった。これに対して被上告人が言を左右することは許されないというべきである。ここにはっきりと審理不尽の違法がある。
これに不信を抱いた上告人は国会図書館で、後記添付の国税庁統計年報書(以下・年報書という)を手に入れた。酒のしおりはこの年報書に依ったと書いてあるので、この免許場数と国税局資料を対比させて、次に疑問点の解消を試みる。
先ず、年報書によれば平成元年度から同六年度までの(年報書と酒のしおりとでは一年ずれているので、年度は酒のしおりに依った)府県別免許場数は次のとおりである。
年度、 卸者数、 卸場数、 小売者数、 小売場数、
平成二年、一二・一八五者、 一五・〇二八場、 一五〇・一五〇者、 一六一・五二三場、
同 三年、一〇・四七四者、 一七・八六六場、 一五一・四一七者、 一五九・〇八七場、
同 四年、一〇・三二二者、 一八・三〇八場、 一五一・〇八〇者、 一五八・六三六場、
同 五年、 九・九九一者、 一八・二二一場、 一五一・二四六者、 一五九・三〇〇場、
同 六年、 九・八二五者、 一八・〇一四場、 一五一・一二一者、 一六〇・一一二場、
同 七年、 九・六七一者、 一七・八一八場、 一五〇・九三三者、 一六一・三三八場、
差引 ▲二・五一四者、 二・七九〇場、 七八三者、 ▲一八五場、
(酒のしおりによれば平成三年の卸場数が一八・五一〇場で年報書よりも六四四場多く、小売場数が一五八・四四三場数で、同数の六四四場数同書より少なくなっているが、卸と小売の表示記載欄の誤記とみれば、ほぼ符号するのでここでは問題にしない)
右、年報書によれば、五年間で卸の業者が二・五一四者減っているのに対して卸場数が二・七九〇場増加しているので、二七六者が複数の場数を増加させたものと推測できる。
それでは小売業者がたった七八三者しか増えておらず、場数に至っては一八五場も減少させている。これで、どこに透明性があるといえるのだろうか。
そこで、改めて酒のしおりの小売計の外書をみれば平成元年一二・三五三場、中間を省略して平成六年が一五・五四二場であることが認められる。そうすると、その五年間に、卸でありながら小売もできる免許数が三・一八九場増加したことになる。
処で、この間に五・六四〇場増加させたという被上告人の国税局資料の裏付けとして、卸の増加場数二・七九〇場と小売の外書増加場数三・一八九を加えた五・九七九場数から、この五年間に減少した小売場数一八五場数を差し引くと五・七九四場となり、ほぼ被上告人の主張する五・六四〇場数に近くなる。このようにして考えないと到底被上告人の国税局資料を納得することができない。そうすると被上告人が各国税局長に命じて提出させた全酒類小売免許付与件数というのは、少なくとも平成六年までは卸と小売の既存業者の間を重複して算出したことになる。これを上手にねつ造した被上告人の技巧を褒めるべきか、このからくりを見破れなかった原判決を咎めるべきか、云う言葉さえない。
二、まとめ
そうすると平成元年の酒税法改正時に、「これからはどんどん開放的に免許を出す」と宣伝した国税庁の広報部が、実は五千場付与するのに右のような姑息なテクニックを用いて、既存の酒販業者間で免許を盥回ししただけで、実際には新規に七八三人にしか付与していなかった事が明らかになった。じじつ、このような被上告人の恣意がなければ、実際問題として上告人等が十件申請・十件拒否等という世にも稀な事件が起り得なかった事もまた自明の理である。
もっとも、五年間で五千余件の免許付与の進捗状況では二十万人の取得希望者に行き亘るのに二百年を要し、到底この世の沙汰とは思えない。これは人を馬鹿にするにも程がある等という次元を遙かに越えて、既に犯罪の域に達している。
右のとおり全国民の切なる酒販免許自由化の願いを裏切り、重要な証拠にも目を瞑ってしまった原判決は、やればできた筈の事実の精査を怠り、明らかに審理不尽の違法は免れないという外はない。
三、付記 最後に、蛇足になるが次の三点を特に指摘しておきたい。
一つは、右年報書によれば、平成三年度(酒のしおり)で沖縄県と東京都の酒販免許の分布に関する差は次のとおりである。
卸者数 卸場数 小売者数 小売場数、
沖縄県 四・九八三者 五・〇三一場数 一・九一四者数 二・〇九四場数
東京都 七五〇者 一・九〇三場数 一〇・八五〇者数 一一・五二一場数
業者数でいえば沖縄六・八九七者に対して東京一一・六〇〇者で五九%、販売場数では沖縄七・一二五場に対して東京一三・四二四場数で五三%である。人口比では沖縄一二六万対一一八三万人で一〇・六%である。両者の卸と小売の著しいアンバランスは事実上、沖縄では卸も小売も自由であるという証明である。人口一人当たりの密度では東京の約五倍以上の酒販免許者があって沖縄では酒販店が倒産したという事例は極めて少ない。逆に最も倒産が多いのは沖縄の五倍も優遇されている筈の東京であるという事実も重要である。
これは酒販免許制が酒税の保全に全く無関係であることを実証している。
二つは、酒のしおりによれば、平成六年が前年対比で六三九場、同七年が七九一場、同八年が八三五場と各々増加しており、本件提訴後の新規免許下付状況は、ほぼ国税局資料の増加数に近くなってきた。これ等は上告人による口を極めた免許制の解放運動に、最近になってやむなく被上告人が重い腰を上げたものと思われるが、ひとまず評価したい。
これも、本件訴訟が多少は寄与していたかと思えば、上告人は大勢の希望者のために報いることができたような気がして、いくらか救われる。
三つは、平成六年まで酒のしおりの備考欄に菓子・パン業者数を年度別に掲載していたが、いつの間にか消えている。被上告人の隠された意図は平成三年度で菓子・パン業者が一二万六千店で、全酒類小売免許者一三万七千店とほぼ同数で決して少なくないと云いたかったようであるが、上告人は鋭くこれに噛みつき、酒販免許数はキオスクも薬用酒店等がカウントされているが、酒のしおりの菓子・パン欄には売っている筈の百貨店、スーパー、コンビニ、キオスク、喫茶店、食料品店等、その他を含めて二〇万店が集計されていないと指摘したので、やぶ蛇になったと判断して撤回したものと思われる。
以上
(添付書類省略)